長唄会を終えた私は少しばかり気持ちのバランスが保てなくなる時期がある。
会でお三味線を弾く‥長唄の演奏をする‥ということが楽しすぎて‥それが終わると、まるで麻薬患者が麻薬を取り上げられたかのような状態になる。(多分)
会を終えた私は、弾くことを‥長唄に触れることを「渇望」しているのだと思う。
私ごときが大げさな‥
と、自分でも思うのだけど‥。
それほど、気持ちよくお三味線を弾いているのだと思う。
もちろん、会の演奏は100点満点ではなく、反省点は多々あるのだけど‥でも、きっとそれを上回る「楽しさ」がそこにある‥。
これは、ひとえにご一緒頂く出演の皆様のお陰‥。
素敵な唄に身を横たえながら‥酸素たっぷりの水の中で泳ぐ魚のように気持ちよくお三味線を弾く‥。
こんな輝くような時間が他にあるだろうか‥と思う。
でも‥その「輝くような時間」は、実はそんなに沢山あるものではなく、実に下浚い(リハーサル)と本番の2回のみ‥。
本番当日は数十分を2回‥その輝く時間は瞬く間に終わってしまう‥。
シンデレラの如く、時計の針は早いのだ‥。
そしてまた別の機会‥。
素晴らしいと思える人達に交じってお三味線を弾く。
「あぁ、なんて素晴らしい音だろう。」
「‥なんて気持ちの良い音の空間なんだろう。」
数々の芸に痺れる自分。
「感動」という言葉では足りない。
芸に「痺れる」。
だって‥ご一緒しているのは日本有数の演奏者なのだから‥。
末席で一生懸命、必死で弾いているはずなのに、そんなことを考えてる自分がいて‥。
男性プロはこんなにも痺れる状況で仕事をされているのか‥と、思い知らされる。
‥上村松園さんの随筆集「青眉抄」の中にこんなくだりがある。
「これまでに何十度忌々しい腹の立つことがあったかしれない」

これは、彼女が女性であるということに対して‥という内容だけれども、私は、その痺れる芸の時間に身を置けない、「自身が血脈もない女である」ことに忌々しさを感じてしまう。
結婚し‥子供も授かり‥長唄をやって行ける‥これ以上は贅沢なこと‥と、自分ではわかっている。
でも、道を進むにつれ、鈍感で、今まで漠然としか見えていなかったものがはっきりとした形になって目の前に現れる。
‥突きつけられる。
よく勘違いされがちではあるが、私は男性に代わって女流を集めて長唄の仕事がしたいわけでは無い。
男性プロの仕事を目の当たりにする機会も多いので、自分にそこまでの技量は備わっていないことははっきりとわかっているし、男性プロの仕事を見るのが好きでもある。
‥ただ、上手な人と一緒に長唄の演奏をしたい‥。
それだけが私の望みなんだと思う‥。
美味しいものを食べるのは嬉しい。
美味しいお酒を飲むのも楽しい。
面白いお笑いを見るのも楽しい。
本を読むのも面白い。
でも、何か物足りない‥。
ふ‥と、自分が参加させて頂いた、ある演奏の録音を聴いてみた。
唄声があまりに優しくて‥
そして、お三味線を弾いている自分の音がとても楽しそうで‥
突然、悲しさが込み上げて来た。
ただただ悲しくて‥泣いた。
きっと今の私は、ここまで来て初めて本格的な「長唄」の味を覚え、「長唄」に飢えているのだと思う。
たかが長唄。
されど長唄。
私の「長唄」はまだ始まったばかりだ‥。